風来ガール、なんか書く。

言葉って難しくて面白い。今日は嘆きブラザーズが爆誕した日。

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意味不明なタイトルである。

今日友人に会った。最近石川町(横浜)があついらしいぜ!ということで、石川町のカフェにいくことになった。北口に出たら南口の方がカフェに近かったらしく、「南にいくね」とチャットを送ったものの、北口から南口へ行く方法がわからず、どうやってこの川をわたるんじゃい、と彷徨った(北口から南口方面にいくには川の上を渡る必要があった)。ようやく見つけた歩道橋を渡って合流。

だが、お目当てのカフェが閉まっており、次に近いカフェも席が少なく、カフェ難民になって最後にたどり着いたカフェでお茶をした。

「元気?」
「...。近況聞くのって難しいよね。元気ってきかれたら、まあ元気って答えるよね」
「たしかに、じゃあ最近どう?」
「って言われたら、まあうん、それなりにってなるよね。じゃあ最近あったトップ3いきます」

唐突に友人の最近の出来事トップ3がはじまる。第3位を発表してから上がっていく感じかと思いきや、1位から下がっていく形式。だから、最初のインパクトが強い笑

で、そちらはどうよ。と聞かれて私もトップ3を発表する。

1位︰仕事をやめた
2位︰Compathのワーケーションコースに参加した
3位︰予定を詰めない、行き先でやることを決める、ゆるい旅をした

そして、韓国ドラマが好きで、なぜか韓国語が聞き取れる友人だから付け足した私の4位が、「ミスター・サンシャインを見た」

「悲しいよね」
「そうなの、本当に悲しくて。悲しすぎて、次の日も悲しさを引きずって。とった手段は、ビハインドシーンを見て、俳優たちが笑っている姿をみて、救われるっていう」
「悲しいけど、映像がきれいだよね」
「ほんとに」
とKドラマの話題で盛り上がる。

その後は名前の話へ。
そう、今日は名前の話をしにきたのだ。
デンマークにフォルケホイスコーレと呼ばれる学校がある。
人生の学校とも呼ばれるこの学校では、成績やテストがない。資格もとれない。ただ学びにきたい大人が誰でもこれる場所。そんな学び舎を日本につくろうとしているCompathに私も友人もジョインしている。

Compathとの出会いは大学生のとき。インターンとして6ヶ月ほど広報のお手伝いをした。そのときに得たのは、「名前」だ。それまでだったら、無かったことしていた感情への名前。特に、ネガティブな感情を出すことをよしとしていなかった私にとって、もやもや、心地悪い、といった名前を与えることで、有ると存在を認識できた感情との出会いは新しかった。

それから、1年半が経ち、今度は参加者としてCompathのプログラムに参加した。
そうすると、今度は「名前」をつけないことで、楽になる自分に出会った。
何者かになろうと生き急いでしまっていた自分に、「一旦名前をつけずにさ、手放しちゃえよ」って言えるようになったのは、Compathでの1週間があったからだ。

今日会った友人は、ここ2年ほど「名前」と向き合って、その名前にしがみついたり、同居したり、喧嘩したりしてたみたいだ。その話をしてくれた。
私は自分を描写する言葉より、過去の経験に名前をつけがちだった。
名前という箱にしまって、カテゴライズして。特に、辛いとか、大変とか、痛いとか、向き合うのが大変な感情に対して、名前をつけて、はい、おわり。と終わったことにしてきてた。

終わらせるのは簡単。でも、終わらせるのを嫌がっている私もいる。
人との関係性も、自分のあり方も。終わりとすれば楽だけど、終わる寂しさがある。
文字を書くのも、写真をとるのも好きだし、人とおしゃべりするのも好き。
そうした行動の1つ1つには、自分が生きる痕跡をできるだけ多く残したいと思っている私がいると思う。

「名前をつけることで居場所を得て、でも名前が呪いになる」という話を友人はしてくれた。

言葉って不思議だ。

名前をつけると、嬉しいときがある。
だけど、名前がつくと、その経験やその意味がその言葉に閉じ込められてしまうときがある。
名前をつけることで、線を引いて、分断を生んでしまうこともある。
どっちがいいとか、わるいとかじゃないけど、どっちにも転ぶことがある。
不思議だと思う。

名前から少し離れるけど、使う言葉によって人との関係性が変わるよね、という話もした。例えば、大学生に出会うと、なんとなくアドバイスをしないと、と思って、先輩口調になってしまう社会人。答えを求めてないのに、きれいな答えをくれちゃったりする。でも同じ大学生でも彼・彼女の肩書が複数になると、例えば学生だけど休学中でインターンをしていて複数のコミュニティに属しているみたいになると、それまで先輩口調になりがちだった社会人も、どう接していいか分からず戸惑ったりする。

学生と社会人。部下と上司。生徒と先生。関係性がシンプルになればなるほど、硬直しやすい、ような気がする。

デンマークにはOplysning(オプニュすニング)という言葉がある。「自分の中に明かりを灯し、お互いに照らし合うことで共に成長する」という意味で、これが「教育」という言葉にあたるそうだ。照らし合う、という素敵な考え方。生徒と先生が出会ったとき、子どもと大人が出会ったとき、どちらか一方だけが教えを与えるのではなくて、お互いに照らし合いながら共に成長するという考え方はすごくいいなと思う。それも相手を照らそうとか、光らなきゃ、とかそういう焦りではなくて、自分の中にある灯火をしっかり灯すことで、自然と相手も照らされていく、自然な調和がいいなと思う。

私の場合、フラットな対話はアメリカで鍛えられた気がする。
すっごい親しげに話している人たちに、友達?と聞くと、いやさっき会ったよ。みたいなノリだったりする。お互いの名前も知らずに陽気に話してたりする。英語にも丁寧な言い回しとくだけた言い回しがあるが、敬語というものがないので、全員フラットに会話がはじまる。最初は戸惑ったけど、慣れたら案外できるものだ。

Compathのプログラムでは、はじめましてをした大人たちが共同生活をする。短くは1週間、長ければ3ヶ月。7月のワーケーションに参加した私は、友達をつくりにいくんだ!という気持ちだったので、年齢も所属も自分からは聞かず、全員にため語で馴れ馴れしくさせてもらった。子どものときって、ジャングルジムを一緒に登りながら友達ができたよね。そんな感じ。名前も知らない。どこから来たかも年齢もしらない。ただ同じジャングルジムを登ったということだけで、友達になれる。同じ砂場にいたから。同じトランポリンでジャンプをしたから。それ以上でもそれ以下でもない、その経験が友達にさせてくれる。そんな気持ちで過ごした8日間だった。

でも、そこで敬語を使うのか、ため語を使うのかで関係性が大きく変わったりする。
「全員英語だったらさ、悩まなくていいのにね」
そんなことを言ったら話が盛り上がった。

「1回全員英語のCompathプログラムとかしたら面白そうだね」
「でもそうすると、イングリッシュスピーカーという偏りが出ちゃうからさ。英語吹き替え風はどう?」

アメリカの授業が眠いとき、全然英語が入ってこないとき、1人でいるとき。英語まみれのキャンパスで、頭の中で勝手に洋画の日本語吹き替えをつけて、ふっと笑っていた自分を思い出して言った一言。そこから嘆きブラザーズが誕生した。

名前で呪いにかけられるとか、嘆くことは難しいとか、余白が必要だとか、人生に寄り道がほしいとか。それを語ってなにかが生産されるわけでも、正解を見つけられるわけでもない、ぐたぐたとこねくりまわした会話を日本語吹き替え口調でやってみると笑えてくる。カフェの奥の席で、ケラケラ笑いながら、ひたすら日本語吹き替え版劇場をして、電車の中でもハリウッド劇場をしながら、ケラケラわらって友人と別れた。

だから今日は嘆きブラザーズが爆誕した日だ。
嘆きをテーマに、日本語吹き替え版の口調で、マイケルとジョージが愉快に話す。
What's up, bro?のノリで、ヘイ、今日も嘆いているかい?と挨拶をかわす。

Compath広報チームとして再会した友人と私で、もはやどこにニーズがあるかも不明な、ただただ自己満のふざけた企画を思いついた。
でも、ちゃんと向き合って話そうと思うと重くて目をそむけちゃうようなことも、日本語吹き替え風に話すとすらすら話せたりする。案外そういうところに発見があったりする。

「私すっごいすざけたことを、すっごい本気でするの大好きなの」と友人が言った。

それって大事だなって思う。人生に遊び心を。ユーモアを。
それ何になるの?やって何が得られるの?どんな効果があるの?と結果が求められがちなこの社会で、精一杯ふざけて、笑い転げながら、楽しいと思える愉快なことをして、生きた痕跡を残すのもいいと思う。

へい、今日も嘆いているかい?

ベイビー・ブローカー

올해 가장 특별한 여정의 시작 [브로커] 30초 예고편 - YouTube

※ネタバレ含みます。

ベイビー・ブローカーを見た。
赤ちゃんを売る話。

趣味で行っている語学カフェの韓国語テーブルで会った人が、「ポスターのソン・ガンホが笑顔であればあるほど、悲しい映画らしい」と言っていて、今回のポスターではソン・ガンホが赤ちゃんを抱えて、真っ白な歯を見せて、満面の笑みを浮かべていたから、さぞかし悲しくて暗い映画なのではと身構えていた。

映画でも本でも、感情が動くとわりとボロボロ泣くタイプなので、重すぎる映画はだいぶ元気じゃないと見れないし、1人より一緒に見てくれる人がいるほうがいい。

徳恵翁主(トッケオンジュ:朝鮮王朝最後の皇女の話)、ジョーカー、パラサイトを見たときなんかは、映画館を出るときもズーンとして、出た後もなんとも言えない気持ちを抱えてちょっと引きずった。

ベイビー・ブローカーを一緒に見た友人が、エンドロールが始まってすぐに言ったのは、「めっちゃ열린 결말(ヨルリンキョルマル:開かれた結末)ですね」。

たしかに、登場人物がどんな未来を生きるのかは分からない部分が多いが、個人的にはわりと明るい気持ちで見られた。

もちろん、考えさせられる内容だったし、悲しい内容もあった。社会のいろんな局面をぎゅっとつめた作品だったけれど、絶望や悲観だけがあるのではなくて、希望もあったと思う。

 

印象的だったシーンは2つ。

「結局赤ちゃんを1番売りたかったのは、自分だったみたいだ」と警察官がこぼすシーン。人身売買の現場を現行犯逮捕するために裏で色々と動き、赤ちゃんを売る旅に出た彼らを尾行した彼女が言った言葉が印象的だった。

もう1つは、「生まれてきてくれてありがとう」と言うシーン。
事情があり自らの子どもを手放さないといけない母親に、赤ちゃんと別れる前の最後の夜に、赤ん坊に一言かけてあげたらどうだ、生まれてきてくれてありがとう、とか、とソン・ガンホ演じるサンヒョンが促す。最初はためらうが、イ・ジウン演じるムン・ソナはその部屋にいる全員へ「生まれてきてくれてありがとう」と言う。

生まれてきた命を、捨てるくらいなら産んではいけなかっただろう、と言う警察官と、生まれる前に命を奪ったから罪が軽いのかと言う母親の口論や、赤ん坊を売るのは善意だというブローカー、6歳を超えたら貰い手がいなくなる、という養護施設の施設長。赤ちゃんを売ること、子どもを捨てることに対して、いろんな言葉や感情があってからの、最後の「生まれてきてくれてありがとう」。

あまりにもむず痒い言葉だけど、人間は生きていたらなんで自分はこの世界に生を受けたのだろうと1度は考えると思う。生きる目的について考えたり、もがいたり。「生きる」ことに必死で向き合うけど、その理由や、背景は全部置いておいて、生まれてきてくれてありがとう、と言われたとき、同じ部屋にいたおじさんも、若者も、子どもも、みんなが、幼子の顔に戻ってその言葉をじっくり受け止めて、子どもを捨てる母親は誰よりも母親の顔をしているその瞬間がすごく忘れられないな、と思った。

 

花束を包んで開いた8日間

東川での8日間は、毎日の天気が分かる日々だった。

風の匂い、空の色、体にまとう空気の感触、花の香り、じりじりと肌を焼く太陽の暑さを知っている。生きていると感じる時間だったと私は答える。

Compathのワーケーションコースに参加した。
はじめましてで出会った人たちと、8日間の生きるをつくる。

初日のジャーナリングの言葉。

2ヶ月間心のストレッチをして、心をおだやかに、ぼーっとするのが上手になった。しなやか。外と中の境界線が曖昧な感じっていいと思う。

何時かもよくわかんないけど、お陽さまをみて、雨がふって、晴れて、青空が広がって、外で何が起こっているか、空の色が何色か、空気の味が何味か。夏の香りを感じながら、 ぼーっとできるこの何でもない時間に在れることが生きてるなって、感じさせてくれる。

仕事をやめた。時間ができた。
ぽっかり空いた空白に、東川に行きたくなった。
人は転機が訪れたときに、旅をしたくなるものなのだろうと思う。

8日間のスケジュール

1日目。森ではじめましてをした。

最初のワークは森のMEISHI。白い布を1枚渡されて、森にあるもので今の自分を表現する。
何をつくるかよりも、どこに在りたいかを今の自分は求めているなと思って、白い布を片手に山の斜面をぶらぶら歩いた。川のせせらぎもいいな、木漏れ日が降り注ぐ空間もいいな、とキョロキョロしていると、曲がったオレンジの花を見つけた。
なんかいいな、と思ったけど、摘み取りたくないな、と思ったから、花の下に白い布を敷いた。

東川にくる前に、14年前に1年間だけ過ごした山奥の村にいってきた。
久しぶりに会った78歳のおばちゃんが、遺言のように言った言葉がある。

花は咲くからきれいだね。花はきれいだけど、実のなる花はもっときれいだね。

その言葉が浮かんできて、花を咲かす生き方をしたいと思った。

森から戻ると、「理想の暮らし」を表現するワークがあった。
理想の、暮らし...。暮らしなんて言葉、久しぶりに聞いた。
イデアは浮かばないけど、なんとなく好きな素材をとって手の上で転がしてみる。

花束をつくろう。

ふと、思いたった。おばちゃんの花の話にも多分引っ張られてたんだと思う。
ちょっと疲れて休息期間だったので、きれいなものだけ包みたい気分になった。
自分が大事にしたいものだけ、包んでもっていたいな、と。
それが美しくあってくれたら嬉しいな、と。
大きな箱だけもっていたら、中の花は入れ替えられる。なんか、いいじゃん。
イデアが浮かんだら、何をやればいいかわかって、子供が夢中で工作するみたいにしてつくった。

きれいだね、と言ってくれる人がいる。
褒められたのが嬉しくて、ふふっと笑う。つくった花束を大事に大事にもってかえった。

2日目、ヨガをした。

3日目、山に登った。

4日目、麹をつくった。

麹づくりでお米を蒸している間、今の自分を表現する絵を描いた。
4日間を過ごして、私の心がふにゃふにゃに緩みきっているのを感じていたから、それを絵で描いてみた。

夕方温泉につかりながら、今どんな感じ?と聞かれて、
「少し前の私なら、この8日間でなにかを成し遂げないといけないと思っていたと思うけど、今はそれがない。」と答えた。
人前ではおちゃらけているけど、本当は臆病な自分が奥にいて、すごく慎重に人との距離を測りながら人目を気にしていた自分がいない。それがすごく心地よい。

最初の4日間は、多分「無」だった。
ジャーナリングもしなかった。ちょっと前の私だったら、ジャーナリングもせず自分と向き合えてないだめな私、とか思っちゃってそうだけど、あー今の私は何も書きたくないんだー、と流した。

「安全を感じるよね」と誰かが言った。
そうだな、と思う。幸せ、とか、最高、とか、そういう単語さえ出てこない。
ほわわわんとした4日間だった。
ほわほわの中で、喜んでいる自分を見つけてほっとする、そんな時間だった。

5日目、釣りをして、箸をつくった。

朝、4:30に目が覚めて、書きたいことが浮かんできてペンをはしらせた。
ああ、今の私は書きたいんだな―と思う。4日間、空っぽにしたら、ちょっとずつ考えごとが浮かんできた。

朝のチェックイン。浮かんできた問いは3つ。
・止まっていいよ、と言ったり言われたりしたのはいつだったかな。
・ここで出会った人たちを私は何と呼ぶんだろうか。友達、なのかな。
・何者かにならないといけないと思うのはいつからなんだろう。

その中でも、この旅で出会った人たちの呼び名が一番知りたかった。
友達、というにはまだ知らないことが多い。
でも、人生のうち8日間を共に暮らした人たち。
そして、おそらく、一生忘れない人たち。
この人たちへの色んな感情があるのに、それを「Compathで会った人」という言葉で表現してしまうと、いつの間にかその人たちが「Compathで会った人」以上でも以下でもない、その言葉に閉じ込められてしまう気がして、それが嫌だった。

6日目、畑にいった。

6日目の夜の振り返り。
初日に作った「理想の暮らし」アートを持ってきてください。
と言われて、花束を持っていった。

花束をつくった次の日に行った北の住まい設計社で、花束に付け足したいと思って買ったボタンとウクライナ支援の募金でもらった花の種を持ち帰ってから、特に手をつけることもなく部屋の壁に置かれていた花束。久しぶりに見ると、なんか心がちょっとざわついた。

「あー、私きれいにまとまっちゃってるなー」

と思った。全然しっくりこない。
どうしたものか、と思った。

6日間を過ごしてみて、今感じる「理想の暮らし」を表現してみてください。と言われた。付け足してもいいし、引いてもいいし、作り変えてもいい。

うーん…。
思い浮かんだのは、境界線を曖昧にする、だった。

釣りに行った日の私、「ここ最近毎日の天気を知っている。貴い。」と書いている。
東川で暮らす私はなんでこんなに寛いでいるのだろう、と考えて、外と中の境界線が曖昧だからだと思った。
心がふにゃふにゃに解ける前は、鉄の塊みたいにぎゅっと重い心をもっていた。
だけどむやみに触ると壊れてしまいそうに繊細だった。
その頃の私の暮らしは、外と中が断絶されていた。
コンクリートの頑丈な壁の中だと、いつでも、いつまででも働ける。
風の匂いが冬から春へ、移り変わるのを味わうこともなく、とにかく走り続けたら、疲れた。

曖昧な境界線。どうやったら表現できるかな。
毛糸も、紙も、使うと線を引いてしまう気がしてなんとなく気が進まない。
考えて、開いた。花束を開いた。
平面にして、どこにでも繋げられるようにしてしまおうと思った。
中のものもバラバラにした。バラして素材を固定しようと思ったけど、他の人がボンドをつかっていたから、固定するのもやめた。びゃっと開いた。
花束を開いたら、心も開いた気がした。

7日目、火を起こした

8日目、はじめましての森に戻った。

「場所のパワフルさ」とある人が言った。
はじまりと同じ場所に戻ると、あのときの自分と今の自分の想いが交差して、ぐっと感情が湧き上がってくる。

はじまりの場所に戻り、おわりのはじまりをする。
さみしくて、胸がちょっと痛くなった。
でも、これがおわりじゃないんだなと思うし、これがおわりじゃないと分かっている。

ジャーナリングをした。
私がつけたかった、この人たちへの名前を考えてみる。
思い浮かばない。
思い浮かばなすぎて、一旦名前をあげなくてもいいかな、という気がした。

みんなで円をつくって最後のチェックアウト。
これまでの私は過去の経験に名前をつけがちだった、と私は振り返った。

Compathとの関わりは、2021年の春先に遡る。
インターンとして関わった私がCompathで得たのは、名前のない感情に名前をつけることだった。いつでも状況にポジティブであることが良いことだと思っていた私は、なかったことにしていた感情に名前をつけることで、自分の感情を観察することができるようになった。

1年半後の私は、名前をつけないことで保留できる景色や感情があることを知った。
複雑なまま、わからないまま、ゆらゆらさせたまま、一旦置いておいてみる。
焦って名前をつけずに置いておく心地よさを知ったのがこの8日間だと思う。

だから、理想の暮らしに「花束」というあまりにも分かりやすい単語を与えた自分に、ざわざわしたのだと思う。

過去の経験に名前をつけて成仏させがちだった私。
「嬉しかったこと」「辛かったこと」「楽しかったこと」「嫌だったこと」
名前をつけて、きれいにラッピングして、スノーボールのように過去の記憶を閉じ込めてしまうと、分かりやすいけど、そこに生(せい)が少し欠けていたように思う。

閉じ込めずに、名前のないまま置いておくと、過去の記憶も今の記憶も息づくように感じた。

8日間が終わって、その後も旅を続けた。
Serendipity. 無計画の旅。

そこで会った人に聞いた言葉で動いてみる。
空の色を見て、歩きたくなったら歩いてみる。
そんな日々を過ごして、2週間ぶりに横浜に帰ってきた。

都会から逃げるようにして自然豊かな北の大地に行ったから、都会に戻ってきたらざわつくと思っていたけど、意外にも心は落ち着いていた。
横浜駅の改札を出る。
研修のとき、毎朝京急線から東横線まで小走りで走っていた自分の姿が見える。
崎陽軒を指さして、浜っ子の友人が、横浜名物だと教えてくれたこと。
ここが私の暮らすまちなんだとわくわくしたこと。
大切な友人と待ち合わせた改札前。
会社に行きたくないよーと喚いた日曜夜の改札前。
いろんな記憶が時系列と関係なく、ぽこぽこと浮かんでは消える。
ああ、私、ここで生きていたんだと思う。

東の京に帰ってきました。と言ったら、「おかえり!」と言われた。
胸がきゅっとひきしまって、ぽわんとあたたかくなる。
東京へ来て、「おかえり!」と言ってくれる人をCompathで得たんだと思った。

最後に「ここで会ったみんなに何て名前をつければいいのーー?」と質問しまくってた私の最終日のジャーナリングより。

私はこの人たちに何と名前をつけるのだろう。友達をつくりに来たけど、友達なんだろうか、とか。でも一旦名前をあげなくてもいいかなって気が今はしてる。
ゆらゆらすればいい。そこに在らせればいい。
分からないならおいておけばいい。
名前がなくても、大切にすることはできるのだから。
覚えておきたいな、覚えられていたいなと思う人たちだった。

島根がマニュアル大国だった話

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田植え前に出会ったカメさん

 

人は余裕がなくなると「文章を書く」ことの優先順位を下げてしまうのかなぁと思います。人によると思いますけどね笑。「文書くの好きなので」というと「え、文章書くの好きって思ったことないわ」と言われることもあるし、生活に物書きが溶け込んでいて普段から常になにか書いている人も知っているし。

文を書くスタイルの話をインターン先でしたときに上司が「私は身を削って書くタイプなので」と言っていてめっちゃ分かる!ってなりました。そのときの話はインターンしている会社のPRのこれからを考えていてSNSが弱いっていう話だったんですよね笑。めっっっっっちゃ考えて書くnoteとか、長めのFacebook投稿とかは頻度少なく、でも納得のいく丁寧な、というか重めのごっつい文章を書けるのですが、インターン先にじっくり考えるタイプの人間が集まる傾向があるのか、みんな全体的にSNSに弱い笑。Twitterでつぶやくとかインスタでパシャっとか、もっと気軽な、ダイアリー的な投稿にまあ弱いこと笑。だから私もブログのネタに良いものがあっても、後の後までとっておいてしまうんですよね。

久しぶりにブログでも書くかーと思いたち、書きたいことはあるけど、まずはためていた下書きを消化しようと開いてみたら目に止まったのがこれ。これ田植えのときのエピソードなんですけど、もう9月です。稲も黄金色に染まってきてます。どんだけ熟成させておいたって話なんですが、書いてみようと思います。

4月に田植えにいってきました。知り合いの方が農家をされていて、そちらで子供たちと一緒に田植え体験をさせていただくことに。ちょうど北海道にいってきた後で、農業・自給自足・食、みたいなワードにめっちゃ惹かれていた時期だったこともあってテンションぶち上がりで田植えに参加しました。まだオンラインで昼夜逆転しながらアメリカの大学で勉強していたときだったので、朝早くの田植えは眠かったですが....

「田んぼに入れるように半ズボンできてください」と言われたので、まだ少し肌寒い時期でしたが、がっつり半ズボンに黒いTシャツを来ていったら子どもたちも親御さんも普通に長ズボンで「やる気ありますね!」と言われて若干恥ずかしかった笑。

そして、田植え。めちゃめちゃ楽しかったです。1面全部田植えさせてくれるのだと思って、めっちゃ張り切ってたら2列だけ手で田植えをして後は田植え機でってなったので、ちょっと残念でしたが (とかいって本当に全部手でやったら次の日動けなくなるんだろうな。昔の人すごい。そして今の技術もすごい。) その後に田植え機にも乗せていただきました。

田植えがだいたい終わってだべっている時、なんでか忘れたけど免許の話に。多分、今日はどうやってきたのー?みたいな話の流れだったと思います。まあ島根に住んでいて車以外の移動手段は無いに等しいので、だいたい自分で運転したのか、それとも誰かにのっけてもらったのかで、10代後半~20代前半だと免許ある・ない?の話になることが多いです。都市部に住んでいる友達と免許の話になると「えーもうとったんだ、はやいね」と免許をもっているのがすごいみたいなトーンになりますが、島根だと高校卒業してすぐにとる人も多いし大学生も1-2年生のときには免許をとるので、免許もっているでしょというテンションが普通で、もってないと「まだもってないんだ」というトーンになる。住んでる地域で反応違うの面白いですね。

私はMTの免許をとりました。理由はおとん。マニュアルをこよなく愛し、MTがあるからという理由(もちろんそれだけでない)でMTのミラを買って「僕のスポーツカー」といいながら田舎道をエキサイティングにドライブしている父親なので娘が免許をとるというときもがっつりMTを推してきました。「MTじゃない車なんてつまらん」「MTじゃない車なんて車じゃない」「ATは運転している気がしない」「MTだったらどこでも運転できる」「将来どんなところにいっても運転できるようにMTをとったらいい」(個人の意見です) ととにかくI LOVE MANUAL TRANSMISSION な父でしたので、そこまで言うなら...とMT免許をとったのですが、まあ大変でした。AT限定がある今MTをとる人は少ないですし、その中でも女の子となると少ないようで。MT免許の研修を受けていると「MT女子」と名付けられ、「なんでMTとろうと思ったの?」「父がMTとれっていいました」と答えると、「MT女子の9割はお父さんだよ (教官の経験上そうらしい)」と言われ、その9割の見えない仲間を思って「頑張ろう私」と自分を奮い立たせながら「逆にその1割すごくないか?」なんて思いながら免許をとった日々が懐かしいです。

だいっぶ話がそれましたが、教習所でもMTっていうだけでそんな反応だったのでMTは圧倒的マイノリティだと思っていきてきた私。同世代でMTとったって人は記憶上1人しか会ったことありません。だからいつもMTの苦労話で盛り上がるのはAT限定というものが存在しなかった世代の皆様笑。なのに、なのに、なのに。

私:「MTとりました」

「僕も」

「僕もですよ」

「私もだよー」と、なんと、同じ田植えの瞬間に3名ものマニュアルフレンズが!

1人はたしか親にMTとっといた方がいいと言われた私と同じパターン。もう1人は車好き少年で、やっぱり車はMTっすよ!っていうタイプの子。姉さんは農家の奥さんなので軽トラ運転するからもともとATだったけどMTをとったそう。

いやぁ、ほんとに、ここ最近の嬉しいことトップ3に入るくらい、喜びました。島根はマニュアル大国なのかと実感。

ま島根だったらドライブしたくなりますしね、車関係の仕事されてる方も多いし、農家や営業者ってなるとMTのことも多いので、都心部に比べてMTをとる人が多い傾向があるのかもしれません。

そんなこんなで楽しく田植えを終え、マニュアルフレンズもみつけた楽しい日。田植え機にも乗っけてもらってとっても楽しかったのですが、

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田植え機。埋まりました。子どもたちは乗っけてもらってスイスイ進んでいたのですが、さすがに大人は重かったみたいです。

分人主義

色々考えていたことを書き留めておかないとこぼれ落ちていってしまう気がして、下書きのままにして書き進めていなかった色々を記事にしてみようと開いてみた1つめがこれだった。インターン先の方から勧められていた「私とは何か」を読んで印象的だったことを書き留めたメモが出てきたので文章にしてみようと思う。

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「個人」から「分人」へというサブタイトルにあるように、この本のテーマは「分人主義」。個人 (individual) は分けられない。体は1つで、その体に ”風来ガール” とか名前がついている。でも本当にそうなんだろうか?体は分けられないかもしれないけど、人格って完全なる1つのものなのだろうか。同じ「わたし」でも場所や状況によっていろんな「わたし」の姿があるよね。その色んな「わたし」の1つ1つを分けられる人、つまり分人 (dividual) としてみたらどうだろうか、という話をしている。著者の方が小説家であり、「ひと」を描く上で色々と考えた内容などが例として出てくるのが面白い。私はあまり小説を読む人ではないのだけれど、この本を読んでから小説が読みたくなった。

では印象的だった (と過去のわたしが書き留めていたところ) を振り返ってみる。 

p.46 大学時代、私が人から訊かれて一番苦痛だったのが、「将来、何になりたいの?」という質問だった。

ここを書き留めたのは、自分が強く共感するところがあったからだろうと思う。この本を読んでいたタイミングでたしかこういうことをよく考えていた。自分がやりたいことがあって前に進もうとしている人たちを見ると焦りみたいなものを感じたり、まだ自分を白紙の状態で置いておきたいのに「何したいの?」ときかれるとそれっぽい夢みたいなものを描かないといけない気がして疲れてたりしていた時期だったから、こういうことを書き留めていたのかも。このフレーズの下に「山登り型の人生、川下り型の人生」というメモ書きもあった。これはある人に教えてもらった考えかたで面白いなーと思った言葉。山登り型の人生は1つのゴールがあって、それに向かっていくためにどうすればいいか目標を立てながら上に登っていくスタイル。川下り型の人生はゴールの地点は明確に決まっていないけど、流れていけばいずれ海に流れ出るんだろうくらいざっくりで、その間いろんな道を通りながら、流れに身を任せながら、でもゴールには向かっていくというスタイル。目標をもて、やりたいことを成せ、みたいなことを言われると心地悪くなるという話をしたら、あなたは川下り型なんじゃないと言われて、なんかそのときすごく腑に落ちたのを覚えている。

p. 98 私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。

これは多分面白かったから書き留めたんだと思う。え、そうじゃん!って思ったんだと思う。関係性の中で生まれるのが分人というのが面白かった。一緒にいる人が変われば出てくる私の姿も変わる。一人でいるとしても何らかの出来事で心が動いてリアクションが出るわけで、私が何かとの関係を築くからこそ出てくる分人がある、というのがすごくしっくりきたので書き留めたのだと思う。

とても面白く読んだ本だった。話す相手や状況が変わるときに自分のあり方が変わると、ずっと同じであれない自分を否定してしまうときがあったけど、話している相手が違うんだから起こるリアクションが違うのも当たり前だよな、という、すごく当たり前だけど言葉にしていないから認識できていなかったところを言葉にしてくれていて、すうーーっと入ってく感覚があって嬉しくなった。今この状況が楽しいのはなんでだ?もやもやするのはなんでだ?どの言葉に今感動しているんだ?どの言葉に心地悪さを感じているんだ?と自分がどの人や言葉に対して、どんなリアクションをしているのかを観察するようになった理由の1つはこの本かなーと、この文を書きながら考えてた。

きいろの絨毯

北の国から一転。みどりが生茂る島根に戻ってきた。

さくらの季節ときれいにすれ違ってしまった。

さくらを求めて三瓶にいったら、あたり一面きいろの絨毯になってた。

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なんとか見れた。 

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帰り道、立久恵峡の水が澄んでた。

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春に白鳥がくるまちに来たみたいだ

春ですね。東川にもハクチョウがやってきましたね。

北海道に来て知り合った方がこんなことをつぶやいていた。

北海道に来てから、4度白鳥たちが優雅に列を成して飛んでいく姿をみた。
2回はドライブ中。あとの2回は散歩中。
大体いつも夕方くらいに、西から東へ向けて白鳥が飛んでいく。

茨城育ちの私は、白鳥が恐竜くらいに見えていた頃から白鳥と仲良くしていた。
去年掘り出して家族で見たホームビデオには、白鳥にあげるパンを自分で食べてばかりで、「パン食べてるでしょー」と母に言われている自分の姿があった (笑)

茨城にいたころは毎年11月になると白鳥がやってきて、3月になると彼らは北へと飛び立っていった。だから私にとって白鳥は、春に飛び立っていく存在。
Facebookで上のつぶやきを見たときは、え、白鳥って春に来るものだっけ?とはてなが並んだけど、どうやら北海道は白鳥が北へ向かって飛んでいく途中に寄っていく中継地点のようだ。3月の下旬にやってきて、2週間ほど水辺や田んぼで休んだ後、また北へと飛び立っていくそう。

もしかしたら茨城でいつも送り出していた白鳥たちが、今北海道で私の上を優雅に舞っている白鳥たちなのかもしれない。

2回は運転中で、3度目の散歩中は過ぎ去る白鳥を眺めることしかできなくて、4度目に見かけたとき慌ててカメラを取り出してやっとこさ撮った1枚。

街なかで電線があるし、白鳥は遠くに行ってしまった後だし。ベストショットとは言えないけど、ファインダーにおさまってくれたことに感謝しよう。

拡大して見てみると、シルエットがはくちょう座そのもので。おもわず「すごい、はくちょう座みたい」とつぶやいたけど、白鳥がはくちょう座の形をしているのは、あたりまえか。というか、正しくははくちょう座が白鳥の形をしているのよね。

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夕日を撮りにいく途中、頭上を通り過ぎていった白鳥たち


スーパーの買い出しをのんびりしていたら、外が夕日色に染まっていて。夕日の写真を撮りたいと、豚肉にキムチを詰め込んだビニール袋を片手にぶら下げたまま、夢中で西へ歩いてやっと撮った1枚もここに置いておく。荷物をもったまま、日が沈みきってしまう前にやっとこさたどり着けた公園での写真。

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インターンを終えて戻ってきた島根の空にはツバメが飛んでいた。