風来ガール、なんか書く。

3月11日

これはブログに書き留めておきたいな、と思って携帯にメモはとっていたけど、書けていかなかったことを今更ながらに記事にしてみる。
 

先日書いたように、今は北海道に来ている。出雲から北海道へ行くには東京で乗り換えが必要だ。私は東京で1泊することにしていたので、3月12日に北海道で到着するために3月11日のお昼の飛行機で出雲から東京へ向かった。出発のために朝パッキングをしながら、「10年前の今は誰もあんなことになるって思ってなかったんだね」と父に言った。「そうだね」と父は言った。

 
10年前のことはよく覚えている。私は当時中学2年生。韓国の中学に通っていた。帰ってくると寄宿舎で放送があって、日本で大きな地震がありました。関東~東北に親御さんがいる学生は連絡をしてください、と先生の声が響いた。
 
地震か、よくあることだし。と思って私は気にもとめなかった。でもなんだか本当に大変なことになっているらしいと聞いて心配になって家族に電話をしたら繋がらなかった。何度かけても繋がらなかった。怖くなってパソコンでメールを確認したらメールが届いていた。
地震すごかったよ。仕事場はぐちゃぐちゃ。でも無事だよ。しばらくは復旧でたいへん。東北ではすごいことになってるみたい。
無事でよかったよ。
今、電話してたんだけど、つながらなかったから・・・。
仕事場の復旧がんばってね。
震度6とかだから、すごいぐちゃぐちゃだろうね・・・。
そして夕方6時。夕食を食べに食堂へ降りていったら、NHK津波に飲み込まれる町の映像が映っていた。本当の津波の映像を見たことなんてなかったから、見てもよく分からなかったのを覚えている。
 
次の日、学校に行くと先生や友人が「家は大丈夫だった?」とすごく心配してくれた。今思えば、韓国の先生や友人より、私のほうがよっぽど他人事に思っていたと胸がちくりと痛む。
 
みんなが経験した震災を経験していないことはずっと気になっていた。でも、だからといってできることもなくて。2011年の夏休み、久しぶりに戻った日本はなんだか灰色だったのを覚えている。節電で全体的にまちが暗いというのもそうだけど、日本という国が悲しんでいるのを感じた。
 
 
昨年度、1年間休学をしてインターンをした。インターンをした団体のうち1つは東北に活動拠点がある。この団体について知った最初のきっかけは教育学部で勉強をしていた友人がFacebookでシェアしていたからだったけど、東北で活動をされていると知って興味をもった。それから何かしらの形でこの団体と関わりたいと思っていた。結局東北でのインターンという選択肢はとらなかったけど、島根の方で関わらせていただいた。それに休学をしてすぐの2019年の6月には福島原発にも見学に行った。そこから父と2人で岩手にある奇跡の一本松目指して福島から車でずっと慰霊碑をまわった。震災のことは心にずっとあったけど、そうやって何かの行動を起こせるようになったのは大学生になってからだった。
 
 

f:id:nanka_log:20210401233341j:plain

f:id:nanka_log:20210401233240j:plain

一本松を目指して車を走らせている途中の景色

 

2021年3月11日。10年前をそこまで強く意識をしていたわけじゃないけど、 たまたま飛行機のチケットを3月11日にとったから、なんとなく他の年よりあの日を意識していたと思う。出雲発の飛行機にのって、機内で手にとったJALの雑誌を読んでいると震災について触れていた。JALという会社がこれまで震災とどう向き合ってきたのかが綴られていた。そしてコロナのことも。それを読んでいるうちに、今年の3月11日はちゃんと黙祷がしたいと思った。さあ、どこで黙祷をしようか。どこか静かなところがいい。1人、震災の時間に目を瞑ろうか、と考えいたら、羽田空港で14:46に黙祷をするとアナウンスがかかった。ちょうど羽田空港内の喫茶店で作業をしていたので、そのアナウンスに合わせて黙祷をしようと決めた。

 
静かな30秒が流れた。
 
黙祷をしていたら、1年前の情景が浮かんできた。1年前の今日はコロナが深刻化し始めた頃。対応が分からなくて休業が断続的に続いていた。休校期間中、小学生が学校の代わりに時間を過ごせる居場所づくりのボランティアをしていたときだったので、2020年3月11日は、島根と東北を映像を繋いで黙祷をした。
 
目の前にいるのは震災より後にうまれた子たち。震災という言葉もよく知らない。「津波が来たの?」「みんな死んじゃったの?」と話す子供たち。無邪気な声が響く。あんまりよくわかってない子もいるみたいだが、映像を見ていた。そんな子供たちを見ながら、大津波が襲った地域でも震災の後に生まれた子たちがこんなに大きくなるほど時間が過ぎたのだなと思った。
 
あれから10年。久しぶりに日本で1年も過ごすと、11日が近づくにつれて震災に関する報道が増えていくのを肌で感じる。Facebookでも震災や被災地についての投稿をする人がいる人がいる。運転中聴こえてくるラジオでも震災のときの話をしている。
 
去年は3月2日に韓国から日本に帰ってきてバタバタしていた。 
今年は震災と向き合う人々の姿をゆっくり眺めながら、震災を受け止めていた。
 
私は直接震災を経験していない。経験してないはずなのに考えると胸が痛む。
これが日本人であるということなのかと思う。
日本を故郷と思っているから、痛いと思うのかと思う。 
故郷と思える場所が多い方が、流す涙も多くなる。
でもそのぶん人として優しくなれると思う。
 
10年前の3月11日のこと、それから過ごした10年の月日を考えながら、ただただ湧き上がった思いだけど、なんだか書き留めておくことに意味がある気がしたから、ここに記しておく。

インターンの好きな時間。今週の天才。

1週間前から北海道に来ている。今インターンをさせていただいている会社が北海道にあって、北海道いつ行っていいですかーと声を書けたら週末に面白いイベントするからおいでよと言われて先週北海道に飛んできました。

この1週間刺激が多すぎて、自分の感情をうまく整理できなくてちょっともやもやしていた。北海道には来ているけど、大学の授業はあるので普通にこっちでも授業やら宿題やらをしているし。イベントはたしかに面白かったけどインプットが多すぎて消化不良になっていたし。もちろん北海道に来ても授業とれるのも、インプットが多すぎると感じるほどの刺激と出会いをいただけているのも感謝だし、それも全部オンライン授業だからこそできる特権でもあるとは思うのだけれど、北海道まで来て宿題をしていると、私ここまで来て何やってるんだろうとか、価値見いだせてるのかなとか、役に立ててるのかなとかぐるぐる悩んでしまったってのも本当。

でも今日、金曜で1週間の業務も終わったし、一緒にご飯つくって食べませんか―?とインターン先でお世話になっているお2に声をかけて、とても良く濃ゆい時間を過ごした。業務じゃなくて、人間対人間としての対話がとても楽しかったし、心地よかった。満たされた。

ご飯をつくってわいわいする前に、まずはいつもどおり1週間の振り返りをした。金曜日、いつもするのは「今週の天才」。チームのみんなが1週間を振り返りながら、自分や相手の「ここ天才だったわ!」ってことを書き出して、相手に伝える。私はこの時間がとっても好きだ。いつもはオンラインでしているので、テキストで書き出して送るという方法だけど、今回ははじめての対面での振り返り。さて、どうしようか。どうやって振り返ろうか...となったけど、私は今週の天才がやりたかったから、やりたいです!って言ったら、よしじゃあやろう!と言ってくれて、対面バージョンでやることに。

今週1週間、刺激ともやもやを行ったり来たりしてたけど、よくよく考えてみれば先週の金曜日は私が北海道に到着した日で、移動Dayだったのでこの振り返りの時間をもててなかったんだっけか。当たり前のように振り返りの時間をもてていたときは気づかなかったけど、私の中でこの時間ってすごく大事だったんだなーって、やらない金曜があって気づいた。私価値見いだせてるのかな?役に立ててるのかな?っていうのが1番のもやもやの原因だったんだけど、多分、これまでは今週の天才の時間に自分の天才なところを伝えてもらうことで自分への肯定感を高めてたのだと気づいた。だからそれがないことでもやもやも増えちゃったんだと思う。

まあ平たく言えば、褒めてもらいたいっていう話っちゃあそうなんだけど。褒めてほしいー!とか何甘ったれたこと言ってるの、と思う自分もいるけど、自分に素直になるならやっぱりこの時間は単純に、素直に嬉しい時間。今週をちゃんと生きたぞ!と思うし、来週も頑張ろう!って前向きな気持ちになれるから好き。

今日は対面なので、ポストイットにお互いの天才を書いて貼っていこうーとなって、みんなで10分くらい時間をとってかきかき。そして共有の時間ってなったとき、2人がそのポストイットを私の体にペタペタ貼り出した!「え!こういう形式でやるんですか!」ってびっくりして思わず言ったよね笑。

f:id:nanka_log:20210319233656j:plain

でも、なんか、対面でするときはそういうもんらしい。私が天才と2人が思ってくれたことを声に出して伝えてくれるのを聞きながらペタペタ貼られるのは、結構気恥ずかしかったけど、なんか嬉しくて、実はちょっとうるっと来てしまった。自分って価値見いだせてるのかなー、役に立ててるのかなーとかぐるぐる考えてしまっていた1週間だったからこそ、1枚1枚のポストイットが貼られるたびに、自分が肯定されている感じがしたし、そのあたたかい言葉が全部私の一部になって溶け込んでくるような感じがして、じわーって内側からあたたかくなった。

こんなあたたかい気持ちになったのは久しぶりだったから、思わず書きたくなって書いてみた今日のブログでした。

さんぽで思考を整理する

最近、「時間があったらさんぽする」という声をちらひら聞きます。時間がなくてもさんぽをすることで余白をつくるようにしてるなんて話もききました。頭の中でぐるぐる考えていることが整理される、良いリフレッシュになるとか、理由はいろいろ。

京都には哲学の道と呼ばれる小径もあるし、良いアイデアは机の上じゃなくてふらふらと出歩いたときに浮かんでくるものだよなーというのは前々から感じていたけど、やっぱりさんぽをするって思考を整理するのにとっても良い方法なんだなぁと最近つくづく感じています。今年の秋から働きはじめるけど、仕事づめにならないように時間を見つけて歩くようにしようと今から考えています。

私はさんぽといえばもっぱら「犬のさんぽ」がメインで、散歩のためのさんぽはしていません。でも先日、自分の中でさんぽがホットワードだったので、犬なしのさんぽに出かけてみました。

f:id:nanka_log:20210316120305j:plain

そしたら、「あれ、さんぽってこんなに自由だったっけ?」って笑。普段犬のさんぽをしているから、自分はさんぽしてる人って思ってたけど、犬に振り回されまくってあんまりさんぽになっていなかったと実感。彼は色々食べまくるし、途中で歩きたくないっす、頑張れないっすーっとか言ってくるので、食べないでーとか、もうちょっとあるこーとか声かけないといけないので、あんまり、というか全然気が休まっていなかったことに気づきました。

犬がいないさんぽだから見えることってある。目に見えない気持ちの気づきだったり、まわりの風景だったり。犬のいないさんぽってこんなにフリーダムなのー!とはしゃぎながら、滑りにくいすべりだいを歩いて降りて遊んだ楽しいひとときでした。

「The Third Door」秘訣をもたないことが秘訣

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/71up2JUl1XL.jpg 
「何がしたいのか」なんて問いはあいまい過ぎて、やるべきことや意味ある答えなんて見つけられない。そんな問いは忘れてしまえ。

 「目標は何か」という問いも、同様にいい加減で適当な答えしか出せない。この問いを改めて考えるには、一歩下がってより大きな視野に立たなくちゃいけない。

 幸福の反対は何だ? 悲しみ? そうじゃない。愛と憎しみが表裏一体であるように、幸福と悲しみも不可分のものなんんだ。

 愛の反対は無関心だ。そして幸福の反対は「退屈」で決まりだと思う。 幸福の同義語は興奮だと言ったほうがいいかもしれない。興奮こそ、まさに僕らが懸命に追い求めるべきものであり、万能薬なんだ。みんなが君に、「情熱」や「幸福」を求めて生きろと言うとき、それは究極的には「興奮」という概念に行き着くんだ。

「サードドア」 という本の一部だ。正確にはサードドアの著者アレックス・バナヤンが「強力な一節」と紹介した、「週4時間働く」という本の抜粋である。前半部分で紹介されている一節であるが、とても心に響いたので忘備録としてここに書き留めておく。

この部分を読んでみて思ったのは、「何がしたいか」なんていう質問は無意味で、何がしたいか分からないって言っている人は行動を起こしていないだけで、何をしたいかは自分が1番分かっているってことなのかなということ。

この部分を読みながら「未来が不安なんて暇人の言うことだ」という恩師の言葉を思い出した。

 

 

www.amazon.co.jp

前にこの本をオススメしてた人がいたなと思って、冬休みに「サードドア」を読んでみた。内容は大学生だった著者が世の中の ”成功した人” は、なんで成功したんだろう? 直接聞いてみたい! と思って著名人へインタビューを試みるという内容だ。

「あなたはどうやってキャリアを踏み出したのか ――」

18歳の大学生が、ビル・ゲイツレディー・ガガスピルバーグなど、米国各界の著名人に次々と突撃インタビュー!

「サードドア」の紹介文だ。多分多くの人は「成功の秘訣」みたいなものを求めて最初はこの本を手に取るのではないかと思う。実際私もそうであったし、このインタビューを始めたころのバナヤン氏も、そのとびっきりの「秘訣」を求めてインタビューを始めたと本の中で話している。いわゆるHow to本みたいな感じで、その一、〇〇をせよ!その二、〇〇が大事...みたいな調子で、成功の法則があると思ってインタビューをはじめた若きバナヤン氏が、やっとこぎつけたインタビューで法則も秘訣も聞き出せぬまま、「僕が望んでたのと違うんだけど...」と頭を悩ませる姿はくすりとも笑えるし、その等身大の姿に読者が自分の姿を重ねて様々なメッセージを受け取ることができるのが、サードドアの魅力なのではないかと思う。 

私自身も成功の秘訣とかが書かれてるのかなと思って本を手にとったが、読み進めていくとインタビューや、人との関係性の築き方がメインの話なのだと感じる。最後にはいわゆる成功者にスポットライトを当てた話ではなく、自分の家族、友人の話が書かれている。数ページに及ぶ謝辞では、彼がプロジェクトをはじめてからお世話になった、もの凄い数の人へ向けた感謝のメッセージが綴られている。謝辞を寄せた人の中には、本の中に頻繁に出てきて本を読み終えるころには、親しい友人のように感じられる人もいれば、読者が知らない人もいる。知らない誰かへ向けられた感謝のメッセージなのに、ここまで心が揺さぶられるのだから不思議だ。

最初は「成功」を求めていた彼が、最後には家族と友人、そして自分を支えてくれた全ての人への感謝を述べる。そこに彼が人を引きつける理由なのではないかと思った。

 

 

本の中でバナヤン氏がトークの帝王と呼ばれるラリー・キング氏にインタビューの秘訣を聞くと、キング氏は ”秘訣をもたないことが、秘訣だよ” と答える。ここが私が1番好きなシーンだ。私はここに全てが詰まっているのではないかと思う。

デンマーク語に Oplysning (オプリュスニング)という言葉がある。デンマーク語で”教育”を表す言葉で「自分を照らし、相手も照らし、お互いに成長する」という意味だそうだ ( 参考:ラーンネット グローバル スクール ) 。Oplysningは先日聞かせていただいた対談を通して学んだ言葉だ。対談の中である方が ”自分が自分でいたら明かりは自然に灯る” という話をされていた。自分が自分らしくあることで灯された光が、他の人を照らし、光の輪が繋がっていったら素敵だよね、そんな話をしながら対談が終わったのだが、まさにその対談自体がお互いを照らし合うような素敵な時間であった。

キング氏が秘訣をもたないことが秘訣だと語ったように、”自分らしくあること” が1番の秘訣で、”自分らしくあること” で灯された自分の光が、相手を照らし、光の輪が広がっていくことが、人々を最も幸福にすることなのではないかと思う。お金、名誉、地位...成功の測り方は人それぞれだと思うが、私は心に強く灯された光をもつことを成功だと言いたい。

最後にバナヤン氏が数年間に及ぶインタビュープロジェクトを通して見つけた成功者の共通点をシェアしてこの記事を終わらせようと思う。

人生、ビジネス、成功。

どれもナイトクラブみたいなものだ。

常に3つの入り口が用意されている。

 

ファーストドア:正面の入り口だ。

長い行列が弧を描いて続き、

入れるかどうか気をもみながら、

99%の人がそこに並ぶ。

 

セカンドドア:VIP専用入り口だ。

億万長者、セレブ、名家に生まれた人だけが利用できる。

それから、いつだってそこにあるのに、

誰も教えてくれないドアがある。

サードドアだ。

 

行列から飛び出し、裏道を駆け抜け、

何百回もノックして窓を乗り越え、

キッチンをこっそり通り抜けたその先に―― 必ずある。

 

ビル・ゲイツが初めてソフトウェアを販売できたのも、

スティーヴン・スピルバーグ

ハリウッドで史上最年少の監督になれたのも、

みんなサードドアをこじ開けたからなんだ。

Hidden Figures

Three women standing in the foreground. In the background a rocket is launching.

「Hidden Figures」は2016年にアメリカで公開された映画だ。邦題はドリーム。1960年初頭、アメリカ初の有人飛行計画である「マーキュリー計画」を影で支えたNASAの3人の黒人女性の話だ。実話に基づいている。

アメリカで公開されていたときは、私もアメリカにいたため気になっていたが、まだ字幕なしに英語で映画を見るのには勇気が必要でなかなか見るタイミングが掴めず見ていなかった映画だ。

感想としては、最高だった。最高なんていう薄っぺらい言葉で語ってはいけないと思うくらい最高の映画だった。

物語の中心となる3人の女性は数学の天才キャサリン・ジョンソン、黒人女性のみで構成される”西計算グループ”をまとめるドロシー・ヴォーン、エンジニアを目指すメアリー・ジャクソンだ。

舞台となるのはアメリカ南東部バージニア州ハンプトン。今からたった50年ほど前。私の両親が生まれた頃、アメリカでまだ当たり前のように人種差別が行われていた。白人と有色人種はトイレが分けれられ、バスの席が分けられ、通える学校も図書館も分けられる。作品内には今では考えられない差別がまかり通っていたと分かるシーンがいくつも散りばめられているが、そのどのシーンよりも「差別」の根深さを感じたのはドロシーと上司のミッチェルが話すシーン。NASAの中で肌の色に関係なく使えるようになったトイレの中で2人が交わした短い会話だ。

You know, Dorothy. Despite what you may think I have nothing against y'all.

ねえ、ドロシー。勘違いしないでね。私はあなたたちに対して何も偏見をもっていないわ。

I know. I know you probably believe that. 

分かっています。あなたがそう思い込んでいるのは。

映画の随所に描かれるキャサリンの姿を見ていると、あきらかに彼女は差別をしている。その彼女が自分は有色人種に対して何の偏見をもっていないと、本気でそう思っている。認識しない差別ほど、恐ろしく、冷たく、根深いものはないと思った。

そんな差別が当たり前にあった時代。懸命に、力強く生き抜き奮闘した3人の黒人女性の姿には心動かされるものがある。

大好きなシーンが多すぎてとても選ぶことなんてできないが、特に考えさせられたシーンを紹介する。メアリーがエンジニア養成プログラムに参加するための資格を得るには白人専用の高校に通わなければならなかった。そこでメアリーは裁判所に嘆願書を提出する。当時はまだ「人種分離州」であったバージニア州連邦政府最高裁がどう言おうとバージニア州法が絶対だと言う判事に対して、メアリーは特別な事情を考慮するべきだと訴える。

Your Honor, you of all people should understand the importance of being first. Well, you were the first in your family to serve in the armed forces, US Navy. The first to attend university, George Mason. And the first state judge to be recommissioned by three consecutive governors...

判事、前例となることの重みは誰よりもご存知のはず。あなたは一族で初めて軍に入隊しました。海軍です。ジョージメイソン大学で一族初の大卒者に。3人の知事に任命された初の州判事でもあります....

 

The point is, Your Honor, no Negro woman in the state of Virginia has ever attended an all-white high school. It's unheard of.... And before Alan Shepard set on top of a rocket, no other American had ever touched space. And now, he will forever be remembered as the US Navy man from New Hampshire, the first to touch the stars.

つまりこういうことです。この州で白人の高校に行った黒人女性はいません。 前例がない。...アラン・シェパードがロケットに乗って行く前には宇宙に行ったアメリカ人もいなかった。そしてニューハンプシャー出身のアメリカ海軍の軍人であったシェパードはアメリカ初の宇宙飛行士として前例を作り名を残します。

 

And I sir, I plan on being an engineer at NASA, but I can't do that without taking them classes at that all-white high school. And I can't change the color of my skin. So I have no choice but to be the first. Which I can't do without you, sir. Your Honor, out of all the cases you're gonna hear today, which one is gonna matter a hundred years from now? Which one is gonna make you the first?

私はNASAの技術者を目指しています。それには白人の高校での受講が必要。肌の色は変えられません。だから前例になるしかないのです。判事のお力が必要です。判事、今日処理する案件で100年後も意義があるのは? あなたが前例になれるのは? 

判事は白人。裁判所内で当たり前のように白人と黒人の席が分けられている。その中で一切怯むこともなく、毅然とした態度で判事の前に立ち、一言一言を発するメアリー。彼女はこの後、夜間クラスの受講を許される。

このシーンで強く感じたのは、アメリカは先例となることを恐れない国であるということだ。ご縁あって今年就職することになった会社に応募する際、「留学を通して学んだこと」という欄に私はこんなことを書いている。

中高の韓国留学、アメリカ大学留学を通して、今まで「外側」と認識していた世界の「内側」に入ってみることで、自分が「内側」と認識する世界が更に広がっていく経験をしました。日韓関係の様々な問題はニュースとしてよく取り上げられますが、日本でニュースを見ているだけでは分からない韓国人のリアルな声を聞くことで分かることや、韓国の学校で韓国人の学生と一緒に歴史を学ぶことで知る両国の歴史観の違いがありました。またアメリカに留学して、慣習や先例の有無に囚われることなく常に例外を受け入れ、先例をつくり続けるアメリカの凄さを知りました。例外が当たり前な国だからこそ、アメリカはアクションを起こせば機会が与えられ何でもできる国である一方で、何もしなければ何も起こらないと実感しました。

ここでの「先例」は映画のセリフにある「前例になること (being first)」と同じことを指していると思う。私はここにアメリカの強さがあると思う。アメリカは若い国だ。日本大好きで日本文化を教えるクラスを受け持っている大学の教授がこんなことを話してくれたことがある。

「京都で新幹線に乗った時、何に驚いたかわかるかい?日本で新幹線に乗ると車内販売のワゴンが来るよね。そこで京都のお菓子を買ったら、そのお店の袋に入れてくれたんだけどね。何がびっくりしたかって、そのお店ができた年がアメリカが建国されるよりも前だったんだよ。」

つまり、日本の老舗の和菓子屋のほうがアメリカという国より長く続いているという事実に教授はたまげたというのだ。このエピソードからも分かるように、アメリカの歴史は短い。1776年にアメリカ独立宣言が公布されてから今年で245年。1776年は日本は江戸時代中期。新・旧石器時代、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、戦国、安土桃山、江戸と来て、歴史の授業でいうと、もう覚えられないよ~~と嘆くころにアメリカという国はおんぎゃあと産声をあげたのだ。

私がアメリカという国に対して抱く印象は、自由・平等・民主主義にこだわる国。そして、先例になることを恐れない、むしろ誇りに思う国。自由・平等・民主主義にこだわるのは、自分たちがそれらを歴史で勝ち取ってきた、築き上げてきたという自負心があるから。そして、先例になることを恐れないのは、常に先例をつくることで歴史をつくってきた国であるから。

私がここで言いたいのは、アメリカすごいぞっ!ということではない。そうではなくて、この先例をつくることを恐れないアメリカの姿は尊敬に値するということだ。

アメリカ留学に行く前に勧められて読んだ「それでもあきらめない ハーバードが私に教えてくれたこと」という本の著者である林英恵さんがハーバードの大学院で学んでいた頃のニックネームは「Ms. exception (例外さん)」だったそうだ。仕事と学業どちらもとりたいなら、どちらもすればいいじゃん!Why don't you do both? というアドバイスをもらい、勤務先と大学院と交渉を重ねて、どちらの組織にも例外的な措置として仕事と学業をどちらもとることを許してもらえた彼女は、ハーバードの担当者さんからそう呼ばれたそうだ。このエピソードを知っていたからこそ、私もアメリカで一見無理そうなことも一旦怯まず交渉してみるということを出来たと思っている。

メアリーが判事に訴えるシーンと例外さんの話に共通するのは、「先例」つまり「今まで誰もやってないことをする」ということに価値を置いているということだ。もちろん、先例をつくることは簡単なことではない。でも先例となることに対して、アメリカという国は日本より寛容だと思う。

この間読んだ記事に「日本は新参者に厳しい社会」と書かれていた。「出る杭は打たれる」ということわざは、日本のこういった風潮をよく表していると思う。それに比べて、日本よりはるかに若いアメリカという国では、歴史が浅いからこそ先例さえなかった。だから全員が新参者であったし、出る杭になろうにもまわりに比べる杭もなかった。だから常に先例をつくり続ける必要があった。ここにアメリカの強さがあると私は考える。

キャサリンがスペース・タスク・グループに配属され本部長ハリソンの下で働くようになってすぐの頃、彼が ”In my mind, I'm already there. Are you? (私の心はもう月に行っている、君は?)” と訪ねたことがあった。そのとき "Yes,  Sir. (私もです)"と一瞬目をそらしながら答えたキャサリンの顔は笑っていなかった。

それからストーリーが進み、3人の女性がそれぞれの夢を叶えていく...。

数学の天才であるキャサリンマーキュリー計画の成功に大きく貢献し、宇宙飛行士のジョン・グレンが地球を3周して無事着水した後、キャサリンの上司であるハリソンは”Nice work. (よくやった)”と声をかけながら彼女の手を握る。So...と言いながら目をそらしたハリソンは、もう1度キャサリンの方を向き直し”You think we can ge to the Moon? (我々は月に行けると思うか?)”と聞く。まっすぐにハリソンの目を見つめ返したキャサリンは笑顔になった後、何かを決意したような真剣な表情を浮かべながら ”We're already there, sir. (私たちはもう月にいます)”と答える。

キャサリンのこの一言に、この映画の全てが込められていると私は思う。人々が心から本気で実現できると思ったとき。心が現実を追い越したとき、歴史は動く。そして人は一つなる。それがこの映画が私たちへ伝えるメッセージではないかと思う。 

 

 

P.S. ただ1つ、この映画で残念なことをあげるとすれば、邦題だ。何故「ドリーム」としてしまったのだろうか....。「Hidden Figures」というタイトルは素晴らしく深い。このタイトルこそ、このストーリーそのものを物語っている。Hidden、隠されたという言葉ほど強いものはないと思う。Hidden、隠されたという言葉でこのストーリーが表舞台に出てくるということの意味。そしてFiguresに①人物と②数字の二重の意味をもたせているという意図を汲み取っているのか...?と残念な気持ちが抑えられない。何はともあれ、この映画は最高だった。

2度目の免許更新。2度目の初心者講習。

f:id:nanka_log:20210123094435p:plain

先日、人生2度目の免許更新に行ってきた。即日交付が可能な免許センターまでは、自宅から約1時間かかる。少し長めのドライブになるが、最近はコロナで相変わらず自宅に引きこもりっぱなしだし、理由でもないと遠出することもないので、いい機会だと思って、気晴らしにもなるだろうと前向きな気持ちで免許更新に行ってきた。

今回は人生2度目の更新。次は5年間有効だぞ!1時間の講習で済むぞ!と思っていたのに、何故か更新のお知らせのはがきには「初回更新」となっており、初心者講習を受けるようにと書いてある。まあ、行ってみれば分かるだろうということで、とりあえず行ってみることに。

木曜日の午後に行ってきたが、平日でもだいぶ混んでいた。視力検査のところにずらっと人が並んでいる。島根県で行列はなかなかお目にかかることがない。おそらく、運転免許更新くらいだろう。今年はコロナの影響もあって、正月の出雲大社でさえ行列がなかった。

「今回2回目の更新なんですけど、初回更新ってなってるのはなんでですか?」と聞いてみた。
「あれ? どういうことだろう。ああ、免許取得日がここに書いてありますよね。ここから5年経つまでは、初回更新の扱いになるんです。」とのこと。

なるほど。前回免許更新をしたのは大学の夏休み中だった。大学でアメリカにいる間に免許が切れてしまうため、期日前更新をしたのだ。そのため、私は2度目の更新を免許取得から5年経つ前にすることになったというわけだ。

それなら仕方がない。2時間の初心者講習をもう1度受けるのはそんなに気が進まなかったが、最近冬休みで勉強もしていないし、交通安全の勉強をする気持ちで2時間の講習を受けるかぁということに。

今回の免許更新までに、密かに私の中で思い続けてきた夢があった。それは「眼鏡等」を消すことだ。つまり、視力をアップさせること。はじめて免許をとってから、これまで2回免許をもったが、どちらも運転をする際は眼鏡をするようにと書かれている。

視力はとってもよかったのに、中学3年の時に姿勢を悪くして勉強をしてしまったせいで、ついに眼鏡デビューとなってしまった。でも、視力を改善したい気持ちはずっとあり....。まずは眼鏡がなくても車を運転できるようになることが目標であった。目の体操をしてから本番に臨もうとは思っていたのだが....。最近はゴロゴロと過ごしてばかりで目を鍛えられていなかった。この密かな夢は次の免許更新までお預けかな....と思いながらも、どうにも諦めきれずに「1回眼鏡なしで挑戦してみてもいいですか?」と聞いてみた。
「いいですよー」とおじちゃんが言ってくれたので、まずは眼鏡なしで挑戦。
運転免許更新の際の視力検査は両目で行われる。「見える、見える、見える、見える」と心の中で念じながら、とにかく必死で見る。大きいのは見えたが、小さいのは何度か間違えていたようで、片目ずつでもいくつか聞かれた。前の人は瞬間で終わっていたのに、私の番はやたらと長く感じたので、多分怪しいのがいくつかあったんだろうと思う。

検査が終わり一瞬の沈黙が私には永遠に感じられた (大げさ)。沈黙を破ったのはおじちゃん。
おじちゃん:「いいですよ。」
私の心の声:「え!? いいですよってどっちだ? あーやっぱりダメだったか。無理しなくていいですよ、眼鏡かけてくださいってこ.....」
おじちゃん:「ギリギリだけど、眼鏡はずしておきますね。」
心の声:「うぉおおおおおおおおーーーーーやっつぉたあああああーーーー!」

突然奇声を発したらだいぶやばいやつになるので、もちろんこの心の声は堪えたが、やりました! やりました! ついに、裸眼で運転できる栄光を手にしました。こぼれんばかりの笑みを浮かべていたが、おそらくマスクでかくれておじちゃんには見えていなかったのだろう。

何やら書いているおじちゃん。眼鏡なしでもいいということを書き込んでいるようだ。
おじちゃん:「じゃあ、これもって5番に行ってください」

免許はもう目の前だ! 書類と古い免許を差し出すと、今度は窓口におじちゃん2。
「うん? ああ、解除。(眼が) 良くなったんだ」と言うおじちゃん2の言葉に、嬉しくて思わず「はい、良くなったんですっ!」と私。とびっきりの笑顔でこたえるも、またもその笑顔はマスクの下へ。(というか、そもそも免許センターのおっちゃんたちは、忙しく何やら書き込んでいるので顔なんてみてない笑。まあ、もし、視力が良くなってくる人が珍しかったら、少なくともあの2人のおじちゃんは「今日は視力が良くなった子がおったな」と覚えてくれているかもしれない。)

そして迎えた最後の関門。そう....証明写真撮影だ。みなさんご存知の通り、免許証の写真撮影は....まーあ、ぶちゃいくに写る。満足いく写りになった試しはない。毎度のごとく番号で呼ばれる。私の今回の番号は「77番」。呼ばれるがままに並び、座り、いつ撮ったのかも分からないタイミングでシャッターを切られる。「しまった、笑ってない」と一瞬思ったが、そう、笑っちゃいけないのだった。

自分がどんな顔に映ったのか確認できるのは最後に新しい免許を受け取るとき。2時間の初心者講習の間は、どんな写真になっているのかなんて私たちは知る術もない。

さあ、やってきました。2時間講習。
「さあ、皆さん今回ははじめての免許更新ですね。」と会話をはじめる講師のおじちゃん3。「いや~2回目なんですけどね」と内心特になんの意味ももたないツッコミを入れつつ、講義に耳を傾ける。「午前は4人だけだったんですけどね、午後は多いですね。」とおじちゃん3。あおり運転の処罰が厳しくなったとか、運転中の携帯使用の処罰が厳しくなったとか。ニュースで耳にしてはいたが、細かくは知らなかった色んな話が続く。盛り込んでくる時事ネタやジョークを聞きながら、これもうトークできてるんだろうな。こういうあるあるネタものまねにしたら面白そうとか考えながら講義を聞く。ジョークとして言ってるんだろうというところでく、くすりとちょっと笑ってみせるが、これまたマスクで相手には伝わらない。マスクで無表情の聴衆相手に2時間も講義するのも大変だな、なんて考える。

前半の1時間の講習が終わり、休憩。休憩中にカフェオレを自販機で購入し、後半に備える。後半は安全運転の話がメイン。何度も聞いた話ではあるが、でも役に立つ。初回更新のときより、運転量が増えているからこそ、「ああ、たしかに。なるほどね。」となる話がある。最後に見るDVDは変わっていなかった。「危ない! そこに歩行者が!」という安全運転教育用のDVD。ダミー人形のおっちゃんが出てきて、運転中に潜む危険を教えるという内容。若干ホラー要素もある。

こうして2時間の講習が終わった。さあ、新しい免許とのご対面だ。まずは写真をチェック。そして「眼鏡等」が外れたのをみて、心が踊る。写真はびっくりするくらい前回と同じ顔をしていた。3年たって顔が同じなんだから喜んだほうがいいだろう。髪型は1つ結びからおかっぱに変わっていたが、それを除けば全くといっていいほどおんなじ顔をしている。まるで「あなたの好きな髪型を選んで!」と言われて、髪型を変えた携帯のアバターみたいに、同じ顔をしている。

ちなみに今回の更新では、有効期限の部分に西暦と和暦がどちらも記載されるようになった。たしかに、この方が便利だ。令和に変わってからなんとなく和暦だと計算がややこしくなっていたので、西暦のほうがありがたい。

家に帰ると、「どうだった? 写真は?」と父。やっぱり免許更新をしたら、最初に聞くのは写真写りだよね、と思いながら写真を見せる。「びっくりするくらい、おんなじ顔だったの」と言うと、笑いながら「ほんとだー」と父。「でもね、眼鏡は外れてるんだよおおお」とニヤつく私。

「写真で笑っちゃいけないってやだよなぁ。写りよくならないもんなぁ。」と父がいうので、「なんで笑っちゃいけないだろうね」と言うと、「まあ免許見せるときって大体違反したときだからじゃない?」と父。たしかに。違反で捕まってふてくされた顔の時に、免許証の顔が笑顔だったらなんとも皮肉だ。それに警察の人も見比べるには、真顔のほうがわかりやすいだろう。役所やレンタカーで本人確認として免許証を使うときはあるが、たしかに、その時もだいたい真顔だもんな、なんて考えながら、2度目の免許更新は幕を閉じたのだった。

 

廃人の素質。

先日、ホームセンターでELECOMの折りたたみノートPCテーブル 52cmというのを購入した。

www.amazon.co.jp

 

自分の机はあるのだが、布団の上とか、地べたに座ってパソコンしたいなーってときになんとなく勝手の悪さを感じていたので、これならちょうどよく自分にフィットしそうと思ったから。

高いものではないので、作りはちょっと安っぽさがあったが (部品がプラスチック製でバキっていかないかちょっと怖いとか、パソコンが落ちないように止めておくストッパーがはめ込み式とか....)、角度と高さ調整ができてパソコンをちょうどいい感じにセットできるので、いい買い物をしたなぁと感じている。

さすがELECOM。「痒いところに手が届く」とは、まさにこういうことを言うのだろう。

 

f:id:nanka_log:20210122155908j:plain

 

基本的に作業用に使っていたが、昨日は映画を見るのに使ってみた。ゴロゴロしながら映画を見たい気分だったので、家族に「これ (ELECOMのテーブル) 使って、映画みよう」と提案。

畳んだ布団をソファ代わりにして、前にテーブルをセット。ホットカーペットの上に座って毛布を掛け、畳んだ布団にもたれかかる。

 

「飲み物おけないじゃん」と父。
「あれ使えばいいじゃん」と、小さなテーブルを指差す私。

 

脇に小さなテーブルをセットして飲み物を置き、ポテチを拡げる。完璧だ。

より楽をするために、瞬時に判断し、完璧な環境を整える私を見て、父は「廃人の素質がある」と言ったのだった。