風来ガール、なんか書く。

言葉って難しくて面白い。今日は嘆きブラザーズが爆誕した日。

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意味不明なタイトルである。

今日友人に会った。最近石川町(横浜)があついらしいぜ!ということで、石川町のカフェにいくことになった。北口に出たら南口の方がカフェに近かったらしく、「南にいくね」とチャットを送ったものの、北口から南口へ行く方法がわからず、どうやってこの川をわたるんじゃい、と彷徨った(北口から南口方面にいくには川の上を渡る必要があった)。ようやく見つけた歩道橋を渡って合流。

だが、お目当てのカフェが閉まっており、次に近いカフェも席が少なく、カフェ難民になって最後にたどり着いたカフェでお茶をした。

「元気?」
「...。近況聞くのって難しいよね。元気ってきかれたら、まあ元気って答えるよね」
「たしかに、じゃあ最近どう?」
「って言われたら、まあうん、それなりにってなるよね。じゃあ最近あったトップ3いきます」

唐突に友人の最近の出来事トップ3がはじまる。第3位を発表してから上がっていく感じかと思いきや、1位から下がっていく形式。だから、最初のインパクトが強い笑

で、そちらはどうよ。と聞かれて私もトップ3を発表する。

1位︰仕事をやめた
2位︰Compathのワーケーションコースに参加した
3位︰予定を詰めない、行き先でやることを決める、ゆるい旅をした

そして、韓国ドラマが好きで、なぜか韓国語が聞き取れる友人だから付け足した私の4位が、「ミスター・サンシャインを見た」

「悲しいよね」
「そうなの、本当に悲しくて。悲しすぎて、次の日も悲しさを引きずって。とった手段は、ビハインドシーンを見て、俳優たちが笑っている姿をみて、救われるっていう」
「悲しいけど、映像がきれいだよね」
「ほんとに」
とKドラマの話題で盛り上がる。

その後は名前の話へ。
そう、今日は名前の話をしにきたのだ。
デンマークにフォルケホイスコーレと呼ばれる学校がある。
人生の学校とも呼ばれるこの学校では、成績やテストがない。資格もとれない。ただ学びにきたい大人が誰でもこれる場所。そんな学び舎を日本につくろうとしているCompathに私も友人もジョインしている。

Compathとの出会いは大学生のとき。インターンとして6ヶ月ほど広報のお手伝いをした。そのときに得たのは、「名前」だ。それまでだったら、無かったことしていた感情への名前。特に、ネガティブな感情を出すことをよしとしていなかった私にとって、もやもや、心地悪い、といった名前を与えることで、有ると存在を認識できた感情との出会いは新しかった。

それから、1年半が経ち、今度は参加者としてCompathのプログラムに参加した。
そうすると、今度は「名前」をつけないことで、楽になる自分に出会った。
何者かになろうと生き急いでしまっていた自分に、「一旦名前をつけずにさ、手放しちゃえよ」って言えるようになったのは、Compathでの1週間があったからだ。

今日会った友人は、ここ2年ほど「名前」と向き合って、その名前にしがみついたり、同居したり、喧嘩したりしてたみたいだ。その話をしてくれた。
私は自分を描写する言葉より、過去の経験に名前をつけがちだった。
名前という箱にしまって、カテゴライズして。特に、辛いとか、大変とか、痛いとか、向き合うのが大変な感情に対して、名前をつけて、はい、おわり。と終わったことにしてきてた。

終わらせるのは簡単。でも、終わらせるのを嫌がっている私もいる。
人との関係性も、自分のあり方も。終わりとすれば楽だけど、終わる寂しさがある。
文字を書くのも、写真をとるのも好きだし、人とおしゃべりするのも好き。
そうした行動の1つ1つには、自分が生きる痕跡をできるだけ多く残したいと思っている私がいると思う。

「名前をつけることで居場所を得て、でも名前が呪いになる」という話を友人はしてくれた。

言葉って不思議だ。

名前をつけると、嬉しいときがある。
だけど、名前がつくと、その経験やその意味がその言葉に閉じ込められてしまうときがある。
名前をつけることで、線を引いて、分断を生んでしまうこともある。
どっちがいいとか、わるいとかじゃないけど、どっちにも転ぶことがある。
不思議だと思う。

名前から少し離れるけど、使う言葉によって人との関係性が変わるよね、という話もした。例えば、大学生に出会うと、なんとなくアドバイスをしないと、と思って、先輩口調になってしまう社会人。答えを求めてないのに、きれいな答えをくれちゃったりする。でも同じ大学生でも彼・彼女の肩書が複数になると、例えば学生だけど休学中でインターンをしていて複数のコミュニティに属しているみたいになると、それまで先輩口調になりがちだった社会人も、どう接していいか分からず戸惑ったりする。

学生と社会人。部下と上司。生徒と先生。関係性がシンプルになればなるほど、硬直しやすい、ような気がする。

デンマークにはOplysning(オプニュすニング)という言葉がある。「自分の中に明かりを灯し、お互いに照らし合うことで共に成長する」という意味で、これが「教育」という言葉にあたるそうだ。照らし合う、という素敵な考え方。生徒と先生が出会ったとき、子どもと大人が出会ったとき、どちらか一方だけが教えを与えるのではなくて、お互いに照らし合いながら共に成長するという考え方はすごくいいなと思う。それも相手を照らそうとか、光らなきゃ、とかそういう焦りではなくて、自分の中にある灯火をしっかり灯すことで、自然と相手も照らされていく、自然な調和がいいなと思う。

私の場合、フラットな対話はアメリカで鍛えられた気がする。
すっごい親しげに話している人たちに、友達?と聞くと、いやさっき会ったよ。みたいなノリだったりする。お互いの名前も知らずに陽気に話してたりする。英語にも丁寧な言い回しとくだけた言い回しがあるが、敬語というものがないので、全員フラットに会話がはじまる。最初は戸惑ったけど、慣れたら案外できるものだ。

Compathのプログラムでは、はじめましてをした大人たちが共同生活をする。短くは1週間、長ければ3ヶ月。7月のワーケーションに参加した私は、友達をつくりにいくんだ!という気持ちだったので、年齢も所属も自分からは聞かず、全員にため語で馴れ馴れしくさせてもらった。子どものときって、ジャングルジムを一緒に登りながら友達ができたよね。そんな感じ。名前も知らない。どこから来たかも年齢もしらない。ただ同じジャングルジムを登ったということだけで、友達になれる。同じ砂場にいたから。同じトランポリンでジャンプをしたから。それ以上でもそれ以下でもない、その経験が友達にさせてくれる。そんな気持ちで過ごした8日間だった。

でも、そこで敬語を使うのか、ため語を使うのかで関係性が大きく変わったりする。
「全員英語だったらさ、悩まなくていいのにね」
そんなことを言ったら話が盛り上がった。

「1回全員英語のCompathプログラムとかしたら面白そうだね」
「でもそうすると、イングリッシュスピーカーという偏りが出ちゃうからさ。英語吹き替え風はどう?」

アメリカの授業が眠いとき、全然英語が入ってこないとき、1人でいるとき。英語まみれのキャンパスで、頭の中で勝手に洋画の日本語吹き替えをつけて、ふっと笑っていた自分を思い出して言った一言。そこから嘆きブラザーズが誕生した。

名前で呪いにかけられるとか、嘆くことは難しいとか、余白が必要だとか、人生に寄り道がほしいとか。それを語ってなにかが生産されるわけでも、正解を見つけられるわけでもない、ぐたぐたとこねくりまわした会話を日本語吹き替え口調でやってみると笑えてくる。カフェの奥の席で、ケラケラ笑いながら、ひたすら日本語吹き替え版劇場をして、電車の中でもハリウッド劇場をしながら、ケラケラわらって友人と別れた。

だから今日は嘆きブラザーズが爆誕した日だ。
嘆きをテーマに、日本語吹き替え版の口調で、マイケルとジョージが愉快に話す。
What's up, bro?のノリで、ヘイ、今日も嘆いているかい?と挨拶をかわす。

Compath広報チームとして再会した友人と私で、もはやどこにニーズがあるかも不明な、ただただ自己満のふざけた企画を思いついた。
でも、ちゃんと向き合って話そうと思うと重くて目をそむけちゃうようなことも、日本語吹き替え風に話すとすらすら話せたりする。案外そういうところに発見があったりする。

「私すっごいすざけたことを、すっごい本気でするの大好きなの」と友人が言った。

それって大事だなって思う。人生に遊び心を。ユーモアを。
それ何になるの?やって何が得られるの?どんな効果があるの?と結果が求められがちなこの社会で、精一杯ふざけて、笑い転げながら、楽しいと思える愉快なことをして、生きた痕跡を残すのもいいと思う。

へい、今日も嘆いているかい?